こんにちは、kaoriです。
以前、私の自己紹介ということで、簡単な人となりを書きました。
私についてはこちらもご覧下さい。

『私は、こういう人』 というベース、基礎となるものが出来上がったのは、

  1. 私の生まれ育った環境
  2. 他大勢と違う存在でいじめにあったこと

小中学校時代に親元を離れて旅行をした経験

この3つだったと、今は思っています。

これらが今思い返せば、私の人生を決めるターニングポイントになったと思っています。

私が生まれ育った環境

私は1978年春、新潟の小さな村に生まれました。
その小さな村で、私の学年にはかおりという女の子が4人もいました。
だから私は、小学校に上がる前に既に、名字+ちゃん付けで呼ばれ、
それは高校を卒業するまでずっと続きました。
それは保育園の先生が、みんなが間違えないようにと、
私につけてくれたあだ名のようなものだったんだけど、
他のかおりちゃんは、名前で呼ばれて、私は名字。。。
なんかかわいくないじゃん、、て、幼心に思ったのを記憶しています。
さて、その小さな村には2つの小学校があり、中学校はその二つの小学校が合わさって4クラスで構成されていました。
その村には、寄り道する場所などない、通学路は田んぼだらけの田舎です。
コンビニやスーパーなんて車が無ければ行けませんでした。
その反動でしょうか。私は外の世界に対する興味が昔から強かったように思います。
私にとって、いつもテレビや映画で見る、見知らぬ土地で、私とは違う言語(主に英語)を話す人々の全く違う生活、文化、習慣、何もかもが興味の対象でした。
「いつか、字幕や吹き替えの助けなしに映画が見たいなぁ。」
「いつか、海外にお友達ができて、気軽にお話ができるくらい英語が分かったらどんなにすてきだろう。」
そんなあこがれをずっと持っていました。
そういえば、小学校高学年~中学頃だったかに、どこかで母が見つけてきた「海外ペンパル」を探そうというのに申し込み、ニュージーランドとアメリカにペンパルをつくりました。
あの頃は、家に帰って郵便受けを確かめるのがわくわくしていました。
日本の便せん封筒と全然違う肌触りの、異国のにおいがする、海外の切手が張ってある手紙。
あのわくわく感は今でも忘れられません。
私はつたないけれど、一生懸命考えた英語で私の日常を書きました。
学校でこんなことがあったとか、今季節がこんなだから風邪引いちゃったとか。
辞書を一生懸命ひきながら、何とか頑張って作った英作文。果たして彼女たちには伝わっていたんだろうか?
でも今となってはそこはあんまり重要じゃありませんけどね。
振り返れば、感受性が豊かだった年頃のいい思い出です。
そういう興味もあり、nhkラジオで英会話を聞き始めたのは、小学校中学年位だったと思います。毎朝欠かさず聞いてから朝食を食べる。聞きそびれるときはカセットテープに録音してました。

見た目が、周囲の大勢とは違っていじめにあったこと。

私は髪の毛は非常に強いくせ毛、いわゆる天然パーマというやつです。
ちょっとしたくせ毛のクラスメートはいたものの、私ほどクルクルの髪の毛をした人は他にいませんでした。
へんなあだ名を付けられたりからかわれた記憶がすごくあります。
あぁ、みんなと同じく、まっすぐできれいな髪の毛になんで生まれなかったんだろう、、。
と、幼稚園くらいからずっと、自分の見た目を恨んできました。
髪の毛でからかわれることは中学生くらいになると、軽くかわすコツがつかめてきました。
しかし、姉から譲り受けた中学の制服がオーダーメイドで、
(姉は身長が低い割りに胸囲があったので、既製品ではダメだったのです。)
既製品の制服は袖よりも裾が長いの対して、私のお下がり制服は裾よりも袖の方が長かったのです。
その頃、私の中学では制服を変形させたり、ミニスカートや短ラン、ぼんたん服などが流行っていました。
(う~!懐かしい)
それを学校の校則で取り締まろう、というチェック項目に、袖丈と裾がチェックになっていたんですね。
(くだらないですよねぇ?と私は思ってしまうのですが。)
当時の私は至ってまじめな生徒だったので(笑)、制服を変形させようなんてこれっぽっちも思ってませんでした。
先生が私の制服に対して注意をしない、という事で、ヤンキーたちから相当な恨みを買ったようです。
髪の毛はパーマかけてるみたいでくりくり、制服の裾が短い(っていっても、見てすぐにわからないくらいですよ)
でも、先生は私に対して、注意も怒りもしない。
通学の自転車がパンクさせられていたり、靴に石がはいっていたり、陰でコソコソというのはしょっちゅうでした。
あぁ、意図せず他と違う存在になってしまうこと、それがこんなに面倒くさい事なんだなぁ。
なんて生きにくい世の中なんだろう。。。
そういう風に私は、いつもいつも思っていました。
その後私が進んだ高校は、県内で誰でも名前を知っている進学校でした。
そこでは、なかなか友達ができず、休み時間はいつも本を読む孤独な生活でした。
人とつるまない、一人の生徒。いじめの対象になりやすいですよね。
電車を待つ間に、プラットホームで『死ね!』と暴言を吐かれたこともありました。
あのときは、本当に本当に生きるのがつらかった。
今となっては世界は広いことを知っています。
でも、当時は、高校が自分の世界のすべて。
お昼を一人で食べるつらさ、一人で帰宅する心細さ。
タイムマシーンがあっても、高校時代に戻りたいとは、全く思いません。
そう、この高校で起きた、びっくりエピソードがあります。
ある体育教師は、同級生で私みたいに天パだった女の子に向かって、
「お前、その頭は何だ!!!天パならそういう髪型していいと思ってんのか!?」と怒鳴りつけたことがありました。
そうなんです。みんなと同じになる事が美徳なんですよね。

みんな一列に並んでおんなじ格好おんなじ見た目。飛出る杭は打たれる。
校則の厳しい、その高校ではもちろんパーマは禁止。
でも、天パの人がストレートパーマをかけてみんなと同じになる事は許されるんです。

まーったく意味がわかりません。
思春期まっただ中の私には、反抗したい事だらけでした。
でも、ずっとそれを押し殺してきた。
理屈はわかっても本心では理解できないような出来事が、何年も何年も私の頭の中でモヤモヤし、考え、悩み、なぜだ?なぜだ?と答えを探し求め、今の私の人間性を形成していったのかもしれません。

小学校時代に経験した旅

上記のようなつらい出来事はありましたが、私は中学まで結構明るい性格で学級委員をやったり、リーダー的な事をまかされる事が多かったように思います。
小学校の高学年、夏休みには2年連続で北海道に船の旅を、
中学校ではリーダーシップ研修なるものに参加しました。
親元を離れ、その小さな土地を離れ外に出た事。
学校の同級生以外の友人ができ、自分を新たに発見できた事。
それは一層、私が外へのあこがれを募らせるきっかけとなったのでした。